遺言

一緒に生きたい

希望になろう

昨日はお盆恒例の母の実家にて飲み会

いとこの両親、同い年のいとことその息子達という面子

弟くんは元気に歩き回り、つかまり立ちがやっと出来るようになってきたお兄ちゃんと2人で買ってきたパック寿司の蓋をバンバン叩きじゃがりこのパッケージをべちょべちょになるまでしゃぶり小皿を叩きつけては放り投げ割り箸を取り上げられれば盛大に泣く。騒がしくろくに飲み食いできない。それでも子供は可愛いものだと、私もそう思う。その場にいた誰もが優しく笑っていて、その中心に彼らがいた。

ふと、父が私の名前を呼ぶ。嫌な予感がするから、無視をした。それなのに父は執拗い。観念して応えれば、「あれが人の営みだ」など感慨深げに言うものだから、やはり律儀に聞くもんじゃ無かったな。と後悔する。

帰りの車内では、当たり前の幸福を絵に書いたようないとこたちと比べられる。いとこたちはみんなちゃんと働きに出て子供もいて親も苦労していない。それに比べて家のはダメだな。と。だからもう言ってやったのだ。心臓が高鳴った 手汗をかきながら、「だって、パパは子供にクソの役にもたたないとか、そういうこと言わないでしょ」って。そうしたら激昂した父にじゃあパパの子供になれ、お前らはクソの役にも立たねえだろ、お前らなんて要らねぇよ。と返された

そりゃ私だってあの家の子だったらどんなに良かったか。この間の海でも思った。当たり前に両親は貶し合わず、子供のせいにもせず、本気で人格を否定するような悪口もなく、出来損ないだとか、あの時死んじまえば良かったとか、生きてる意味がないだとか、死ねとか、そんなのも無い。いつでも自分の味方についてくれて、支えてくれて、皆が仲良しで、そんな家、そんな家だったら、私はこんなふうに苦しむこともなかったのかと思うと、どんなに良かったか、と思うのだ

2018年の夏、私はずっと考えていた

最低限自分の世話ができるだけの人間になりたい、趣味も楽しいも美味しいも嬉しいも幸せも何もかもなくていいから、お金を稼ぎ、死なない程度に栄養を摂り、寝て、ただ日々を生きるだけの人間になりたい。

自分が自分である以上、幸せになれない。だからもう消えたい 自我というものが最も邪魔なのだ 私が私であることが1番の苦痛なのだ。私が私で、苦しんだり悩んだりする事が最大の迷惑であり、存在が害悪である。誰に対してではなく、他でもない私自身にとってそうなのだ。私というものこそが「要らない」のだ。その点では父に同情する。ただしいとおもう。だからこんなに辛い。辛くても消えることも無く、只管迷惑をかけ続けている。

父がひどいのではなく、自分が悪い。期待に応えられなかったからとかいとこの家のようにごく普通の良い人間であれないからとかではなく、醜悪で自分さえ愛せないのに愛されたいだの真っ当になりたいだのほざいていることが。なぜ私はこんな醜いのだろうと思う。いつまで存在しつづけるのだろう。生きても死んでも迷惑なのだから、せめてこの私、なんて無駄なものさえなくなってくれたらいいのに