遺言

一緒に生きたい

陽の下を行く彼女と私

同い年のいとこが妊娠した。付き合って1年半、同棲して5ヶ月、1年間はダメだよ、と言われた上での妊娠だ。もちろん結婚はしてない。
つわりが酷いらしく、入院しているという。なんと双子らしい。今年の5月に挙式した5歳上の姉は妊娠したものの、流れてしまったらしい。それを告げられた後の報せだ。祝福したものの、内心複雑だったと聞いた。


正直、子どもを身篭るということに、私はさほど良い印象を抱いていない。と言っても私の中で悶々としているだけの感情だけど。というのも子どもが欲しいという感情が理解できないからだ。基本的に性行為によって「できちゃった」ものという印象が強い。動物の様に純粋に生殖の為行われることの方が、人間にとっては少ないからだ。避妊の仕様はいくらでもある。曰く、ゴムが破れちゃってた、ということらしいが、本当に今子どもを授かるべきではないと思うなら、緊急避妊薬という手もある。なんなら彼女は医療に携わる人間だ。それなのにその手を考えなかったということは、つまりそういうことだ。私には、いくら人間がそうして子作りしてきたといえ、それがとても汚らしいものに思えてならない。また、これは相反する感情になるけれど、考えが変わることはなくても、歳をとってリミットが近づくほどに、子どもが欲しい。という気持ちにはなるものだ。だけど私は(これについて後ろめたさは微塵も感じないが)子どもを授かるような恋愛が出来ないし、育てるだけの経済力もなければ、言うことを聞かない劣悪遺伝子を可愛がれる自信もない。それでも、子どもを産むこと、家庭を持つこと。それがこの世界でのスタンダード、幸せの形と思うと、とても羨ましくて仕方がない。普遍的な幸福の輪に入るということは、マジョリティ社会との共通言語を得るということである、と思う。私には絶対に手に入らないもの。それについては後ろめたくてしょうがないのだ。なんで私はこんなふうになってしまったのだろうとか、なんで普通になれないんだろう、とか。
つまるところどんな理由であれ、私には受け入れ難い話に変わりないのだけど、今回は尚更だ。これからどんな顔をして会えばいいのだろうと思う。僻みや羨望からなる嫌悪を包み隠して祝福できるだろうか。酷いことを言いたくなるし、自分が嫌で消えたくなる。彼女はもうとっくに忘れたかもしれないけれど、私はとても幼い頃に彼女が私にした「パパとママの真似事」を忘れられないでいるんだ。子どもでも正常と異常の境界は判るものだ、と良い経験にはなったけど…あれがなければ、私は今とは違う私になっていたかもしれない、とさえ。ままごとの性行為は中学生になる手前まで続いた。それをすっかり忘れて当然のように幸せを享受する彼女を私は、ゆるせるだろうか、と、嫌な気持ちでいっぱいになるのだ。