遺言

一緒に生きたい

新年会

恒例のいとことの新年会だけど、

今回はいとこの子供たちも来ていた

去年何回も会ってるからこれは初めての劣等感では無いけれど、焦燥とともに、感覚は遠ざかっていく

笑ったらお母さんも皆も良かったねと笑う

泣いたらどうしたの大丈夫だよって抱きしめられて。

そうして安心して再び探索を始める活発な子供たちを見ていると、これが正常な世界なんだと改めて知る

この子達は誰からも貶されることなく、愛されて幸せな大人に育つだろう

自分を害するものは、全て親とその親が徹底的に排除する。良いものをたくさん与えられて、常識的で、愛嬌のある。

 

いとこといるとき、私はよく自分と自分の家族とを見比べる どこが違うのか、どうしてこうなのか

いとこは気が利くし、余裕がある。でも自分はそうじゃない、そうできない

その理由を考える。基本的に家の人は、誰かがしてくれた事を当然のこととみなす。感謝こそすれ、内心では見下しているのだ。同時に自分が先に動けなかったという負い目もある。だから自分ができなかった事をどうしてしてこんな事もと責められると逆上して、あなただってしてくれなかったと過去の粗探しをしたり。自分のことばっかりで、自分が劣ってると思いたくなくて、人のことを気に掛ける余裕が無い。

何をしても、そんなのは当然のことだよと言われる。そして当然のことだから見てもいないのだ。そうやって育てられた姉妹は、どっちも面白い程卑屈だ。してくれた事はほとんど覚えてないのに、いつ誰が自分に何をしてくれなかったかを決して忘れない。してくれなかった人には自分も金輪際手助けはしない。目には目を。だからやってあげた事は完全自己申告制だ。じゃないとやっぱりやってくれなかったよね。という事になるから、それだと不平等だから、自分から、あなたの為にこれをしておきました。と言わないといけない

みんな自分の善行が目立つよう自己アピールと、至らない自分を隠すために他人の欠点を探すので忙しいのだ。だから気を使うのはこの家では無意味。それと比べるといとこの家は、とても健全だ、と思う。まず自分の身内を貶して話題にしたりしないのだ。大人になって知ったことだけど、これはおかしい事だ。家族の誰かがムカつくから殺してやろうと思った。なんて、笑って他人に言うようなことでは無い。

自分では何も率先して出来やしないのに、人のせいにするのが得意なのだ。笑える。私はこんな薄汚い人間が嫌いだ 悲しいほどそっくりな自分自身も。

 

感覚が遠ざかる。よくある言い方だと幕の外側に居るような。みんなが幸せだといいのに、と思う

そこに自分は要らない。限らず自分というものはどこにも要らない。自分でさえも必要としない。

卑屈になっているわけじゃない 自分可哀想でもない こんなものが無ければ私はもっと幸せだっただろうにと思うのだ 自分が不幸なのは紛れもなく自分が自分であるからだ