遺言

一緒に生きたい

五月

今日のお風呂はまろやかだった。

暑くも寒くもないこの時期特有のものなのか、無自覚で調子が良かったのか。お湯に浸かった時、柔らかく太腿の間をぬけて行った。さらり、というよりはとろみのある入浴剤を入れた時のような、そういう効能のある温泉に入った時のようなやわらかさ。でも実際にはただのさら湯で、だから、お湯自体に訳があるわけではなく、たぶん、心の向きに拠るものだと思う

脚を揺らすと、両手で掬って零すと、腕を引き上げると、リボンのように纏わりついてさっと引いていく。サテンめいた温みとオーガンジーのような軽やかさをもって

ふと、普段使わない洗面器にお湯を張る シャワーのしぶきが水面にぱたぱたと散る度、真上にあるアイボリーの反射がゆらゆらきらめく。それをきれいだと感じた。ちょうど今の時期、8年前とおなじように。まろくやわらかな感慨がある。いつも見ているなんでもないひかりに、こうして救われたことがいくつもあるな、と思い出して。

心はこころだけじゃなく、身体はからだだけではない。お互いを見ない振りすることもあれば慰め合うこともあるし、綱引きのようだとも思う 別段こころが弾むような良いことがあったわけじゃない。けれどきょうはからだにつられて、しあわせな気持ちになった。こんな時、なんだかはしゃいでるこどもを見ているような気持ちになる。きっと今日の湯ざわりが、みずおとが、色が、ひかりが、からだにとっての嬉しいをくすぐったんだろうな、と思う

この感覚が好き。ひとりきり秘密を共有する。些細なうれしいを誰に伝えるでもなくからだとこころで喜んで、無意識でばらばらのふたつがひとつになったような充足と安心感に満ち満ちて、そんな時、とても穏やかで優しい気持ちになる。世界が近くに感じる。繋がっている、と思う、自分が愛おしく感じる。