遺言

一緒に生きたい

褪せていく

昨日はいとことの飲み会だった。毎年恒例の新年会

今年はあちらは両親しか来れないと言っていたが、妊婦になった同い年の妹が来た。毎度ながら、お姉ちゃんとお兄ちゃんは都合合わず。

そして、2015年くらいから母方の実家で行われていたのも今回が最後になるかもしれない。お姉ちゃんも妹も結婚し、貧相な実家に呼ぶのはねえ……ということで、日帰りで温泉と場所を取って、になるのかも。

相変わらずいとこは眩しくて、私たちは家族全員揃っているのが、嬉しくも後ろめたい。呆気なく指の間からこぼれおちていくたくさんのものを、私はもうずっと、少し遠くから眺めている

私の母と妹があんなに嫌がる父方の母達との年越しも、私は大切に思っているのだ。好いとか嫌いじゃなくて。だって、おばあちゃんが亡くなったら、こんなに賑やかなものにはならない。人も集まらず寂しくなるだろう。みんなが離れて暮らすというのは、それぞれ自立して居るということで、勿論良いことなのだけど、

ふと思うと寂しい。理由がなければ、集まるような家でもないから。私たちのおおもとにあるのは、お互いへの不信感と不満、してやったという上から目線の恩であるような気がする。だから、多少無理矢理にでも催される集まりがなければ、きっとこうやって会することも無いのだろうな、と思ってしまう。もっとやりようがあったと思うけど、それがおばあちゃん家のやり方で、私にだってままならないことは山ほどあるのだから、従うしかないし、それはそれで私は、まあいいのかな、とは思うのだけど。気に入らない人がいるのも当然だろうなとは思う。

それでもずっと続いてきた「毎年恒例」が無くなるのは寂しいものだなあ……

たくさんのすり抜けてもう手の届かない所に行ってしまったものたちを、「懐かしい」とわらえることは健やかで素敵なことだ。私は痛くて仕方がない。切なさや遣る瀬無さが込上げる。あの頃はあの頃はと手を伸ばし、美化された想い出をなぞっては悲しんで。いつか無くなるものに思いを馳せては、眠れない夜をすごす

そうしてだんだん彩度を上げていく青鈍に、ひとりきりの自由な夜を盗られて。