遺言

一緒に生きたい

2020年10月24日

午前一時すぎに病院から「ご家族を呼んでください」とおばあちゃんに電話が来て、急いで向かった。夕飯前にも一度、ばあちゃんは呼ばれて居たから、私たちも用意をしていた。帰宅したお父さんにもその旨を伝えたけれど、ひとまず落ち着いたと言うばあちゃんの言葉を聞いて、ならいいと、酒を飲み始めた。私たちはまだ予断を許さない状況だからやめなよと言ったけど聞かず。

着いた時、おじいちゃんは酸素マスクを付けていて、荒い呼吸だった。車内で堪えていたけれど、姿を見ると涙が溢れて、みんなでベッドを囲んで手を握ったり頭を撫ぜたり…看護師さんが、耳は聴こえているはずなので、たくさん声をかけてあげてくださいね、と言った。車で1時間くらいの所に住んでるおばさん、娘を呼んだ方がいいかとばあちゃんが父に聞くと、来たところでどうしようもないだろ、と怒って、それで辞めてしまった。

30、40分くらいそうしていると、看護師さんが脈拍血圧等が示された機械を見せて、皆が声掛けしてくれたから、おじいちゃんの血圧が上がった、と教えてくれた。上110、下75くらいに。そのときに、おばさんにも連絡しなよ、とつよく後押しして、おばあちゃんが電話をした。そして、もうすぐおばさんが来るから、頑張ろうね。と、みんなで一層声をかけた。

それから長い間、じいちゃんは一生懸命息をして、虚ろながらも薄ら開けた目に涙を溜めながら頑張った。涙を拭いて、じいちゃん、じいちゃん、とみんなが呼んで、外気に触れて冷たくなった顔を撫ぜ続けた。洟と涙でマスクがびちゃびちゃだったけど、血圧の話を聞いて、じいちゃんがこんなに頑張ってるのに、めそめそ泣くなんておかしい。という気持ちになり、頑張って、頑張ろうね、と言い続けた。一方で、おばあちゃんやお母さんは辛いね、苦しいね、と慰めた。……うりちゃんが病気で苦しんでいる時も、私は身勝手に、「頑張ろうね、生きようね」と励まし続けた。お母さんはそうじゃなかったから、私は酷いことをしている気持ちにもなるのだけれど、必死で生きているうりちゃんやじいちゃんに、とてもそんなふうに言えなかった。命のあるままに、逆らわず、一生懸命頑張って生きることが、本当に本当に、立派で………

けれど、じいちゃんの呼吸はだんだん弱まっていって、血圧も下がってしまって…おじいちゃんは開けていた目を、ゆっくり閉じた。目じりに溜まった涙を拭い、声をかけ続けた。私の命を分けてあげるから、生きて、と願う。ずっとそう願いながら手を握りさすり続けて、それでも命はひとしく眠りに就くもので……緩やかに緩やかに、静かにひっそりと、午前三時過ぎ、おじいちゃんは眠った。

おばさんが着いたのはそれから25分位あと。私は機械が変なアラーム音を立てて、看護師さんが医師を呼んできます。と言ったあとも、ずっとずっとじいちゃんの手を握り続けた。おじいちゃんはいっぱい頑張って、おばさんを待っていた。返事はなかったけど、妹も、「耳は一番最後まで聴こえるもの」と言っていたし、ちゃんと届いていたと思う。だから、おばさんがじいちゃんの手を握ったとき、ちゃんと温もりが伝わればいいと思った。じいちゃんの手は暖かかったから……

 

おじいさん、と声掛けする途中、2度ほど、おばあちゃんはおじいちゃんに、〇〇さん。と声をかけた。今更素直になれないと、喧嘩ばかりしてたけど、おばあちゃんにとっておじいちゃんは勿論、大切な人だったんだ、と、喉奥が苦しくなった。おじいちゃんは入院してから、いつものようにおばあちゃんに悪態をつきながらも、何度も、ありがとう、愛してるよ。と言っていた。それにも。私の与り知らない、とうといものに触れて、胸がいっぱいになる。

幼い頃、私をたくさん可愛がってくれて、ありがとう……おじいちゃんが、痛いのや苦しいのから解放されて、だいすきなお酒と煙草を好きなだけ楽しんで、穏やかに過ごせたらいいな。それじゃあまたね。